「降参/降伏」は、「する」ものでなく、ただ「ある」もの。

2016年12月9日

おはようございます。小出遥子です。

非二元・スピリチュアル界隈(どんな界隈だ……)では、
非常によく「降参/降伏のススメ」みたいなことが説かれています。

それはそれでいいんです。
ぜんぜん悪いことではないです。

でも、その降参/降伏の主体を、
この個としての「私」だと思ってしまうと、
余計な苦しみを抱えることになりかねないので、
そこは注意が必要だなあ、と……。

降参とか降伏とかって、個人が「する」ものではないんです。
「しよう!」と思ってできるものじゃない。

「諦め」ということばに変換するとわかりやすいかもしれませんね。

「諦めよう!」と思った瞬間、
即座にその対象への執着を断ち切ることができたこと、
人生において、一度でもありますか?

私は、ないです(笑)。

♪わかっちゃいるけどやめられない
というのが人間というものの常なんです。

「諦め」が起こるときは、いつだって「ふいに」です。
「なんか知らないけど、いつの間にか諦められていた」ことばかり。
そこに、ほんとうのところ、自分の意志が介入する余地はありません。

じゃあどうすればいいか?

どうしようもないんです。

「どうしようもない」というところを認めるしかない。

個としての自分がなにをしようがなにをしないでいようが、
すべては、すでに、絶対的な「降参/降伏」の中で起こっている。

「降参/降伏」は、「する」ものでなく、ただ「ある」もの。

そのことを、ただ、認めてしまう。

認めたところでなにも変わらないけれど、
でも、少なくとも、力みはとれますよね。
力みがとれたら、視野が広くなって、呼吸が深くなって……
そうしたら、ただ、遊ぶように生きていくだけ。
ほんとうに、ただ、それだけで、十分なのだと思います。

 

よい一日をお過ごしください◎