「さとった人」なんかいない

2016年12月8日

おはようございます。小出遥子です。

今日、12月8日は成道会(じょうどうえ)、
つまり、お釈迦さまがさとりをひらいたとされる日です。

でも……どうなんでしょうね?
お釈迦さま「が」さとった、なんてこと、ほんとうにあるんでしょうか?

っていきなり爆弾発言をしてしまいましたが……。

だって、さとりって、個人を超えた、というか、
個人以前にただ「ある」世界の話なので……。

その世界を見出したとき、そこにすでに個人はいないはずなんです。

だから、「さとった人」なんかほんとうはどこにもいない。

つまりは、あのお釈迦さまですら、「さとった人」ではない。

でも、周りの人たちはそうは見ないんですよね。
「お釈迦さま=さとった人」と見て疑わない。
彼らは個人という幻想を生きているのだから仕方ないです。

ここにジレンマが生まれます。

まあ、「死」と同じですよね。

「死」って、絶対に一人称では体験できないんです。

死ぬときにはすでに肉体は失われているわけだから、
自分の死を「体」験できるはずはない。

そういうわけで、死は、いつだって二人称以上の体験です。
「あの人の死」はあっても、「私の死」はない。

さとりも一緒です。
「あの人のさとり」はあっても、「私のさとり」はない。

あはは。ちょっと理屈っぽいかな。
でも、これ、結構大事なところだと思ったので、書いてみました。

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成道会記念に、一冊いかがですか?(笑)

 

よい一日をお過ごしください◎