ぜんぶ「私」だった その3

2014年8月15日

続きです。今日こそシリーズ完全完結です……!

 

 

 

 

 

「それ」は突然やってきました。

 

いや、「やってきた」というのは的確な言葉ではないでしょう。だって「それ」と私は、一度たりとも離れたことはなかったのだから。

 

それは、ただ、あった。いまここに、あった。

 

あったことに、気づいた。

 

いや、「気づいた」というのも厳密に言えば的確ではありません。

 

ただただ、「それ」そのものとしての自分を発見した、という感じでしょうか。

 

 

 

明るくもなく、暗くもなく。

 

暑くもなく、寒くもなく。

 

上もなく、下もなく。

 

右もなく、左もなく。

 

あちらもなく、こちらもなく。

 

彼もなく、彼女もなく。

 

あなたもなく、私もなく。

 

神もなく、仏もなく。

 

生もなく、死もなく。

 

ただただ、「それ」そのものとしての「自分」だけがありました。

 

 

 

「他者」という概念は存在しませんでした。

 

「他者」が存在しないということは、「自分」すら存在しない、ということです。

 

「自分」というのは、いままで私が「小出遥子」だと思っていた存在です。

 

そんなものは、そもそものはじめから、存在していなかったのです。

 

そこにあるのは、ただ「ない」、それゆえに、すべてが「ある」世界でした。

 

 

 

そんな状態でも、私の場合、どういうわけか、聴覚だけは「こちらの世界」のものとして残っていました。

 

しかし、そこにも「他者」はいなかった。

 

それゆえに、ぜんぶが「私」だったのです。

 

 

 

隣の部屋の、妹の下手な歌声も。

 

窓の外を歩く、若いカップルの話し声も。

 

酔っ払ったおじさんたちの嬌声も。

 

夜の街を駆け抜けるバイクのエンジン音も。

 

近所の犬の遠吠えも。

 

 

 

その、ぜんぶが。

 

その、すべてが。

 

「私」だったのです。

 

「私」そのものとして、存在していたのです。

 

 

 

「私」は、妹として下手な歌を歌っていました。

 

「私」は、カップルの男性として、女性に話をしていました。

 

「私」は、カップルの女性として、男性の話に相槌を打っていました。

 

「私」は、酔っ払いのおじさんとして、嬌声をあげていました。

 

「私」は、バイクとして、エンジン音を夜の街に響かせていました。

 

「私」は、犬として、広い夜空に遠吠えていました。

 

 

 

ぜんぶぜんぶ、「私」でした。

 

「私」でないものは、ありませんでした。

 

 

 

そこでは、「神」、そして「仏」すら、「私」でした。

 

そして、「私」は、「生」、そして「死」すらも、「私」そのものであることを知りました。

 

人は死なないことを知りました。

 

そもそものはじめから生まれていないことを知りました。

 

それは、ただただ、そこに「ある」ものでした。

 

 

 

安心していて良いのだと、思いました。

 

 

 

 

 

 

 

実際、どのぐらいの時間、その世界を見ていたのかはわかりません。多分、そこはそもそも「時間」すらない世界だったのだと思います。気づいたら、私は「こちらの世界」に戻っていました。

 

すべての区別がなくなった、あの感覚はものすごくリアルに残っていたけれど、でも、私はもう、椅子は椅子、机は机、床は床で、ベッドはベッド、そんな世界の中で、「小出遥子」という肉体を持って、「小出遥子」の鼻で、気管で、肺で、呼吸をしていました。

 

でも、私はもう、「そちら」も「こちら」も、本当はないことを知ってしまっていました。

 

 

 

なんてことだろう。

 

ぜんぶぜんぶ、自分で創り上げていたものだったなんて。

 

あれも、これも、彼も、彼女も、光も、闇も、神も、仏も、生も、死も。

 

ぜんぶ、「私」自身だったなんて。

 

 

 

よく、「真理を見た人は大笑いする」とか言いますが、そりゃそうですよね。だって、ぜんぶ「私」だったのですから。「私」自身が仕掛けて、「私」自身がそれを忘れて、「私」を見失って……。

 

なのに、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶが、「私」だったなんて。とんだ茶番劇です!

 

でも、私は、大笑いはしませんでした。

 

ただただ、圧倒的な安心感に包まれていました。

 

それだけでした。

 

でも、その安心感は筆舌に尽くしがたいものがありました。

 

この安心感を味わいたくて、「私」は、「私」を別々の存在に分離させたのかもしれません。

 

そんなことを思いました。

 

 

 

 

 

 

 

一度「それ」そのものである「私」を知ったからといって、それから先ずーーーっとその状態で生きていけるかと思ったら大間違いで、私はまだまだ自分の作り出した闇やら光やらに翻弄されまくって生きています。日常の99.999パーセントはその状態です。仏教語にいう「無明」というやつですね。でも、その「無明」すら、自分で作り出しているのか、と思うと、もう、なにがなんだか、笑えてきます。おなかの底から、笑いがこみあげてきます。

 

そして、おなかの底から笑っているときには、そこには一切の区別はないのです。

 

笑っているときには、私は「それ」そのものになっているのです。

 

 

 

ずーーーっとあの状態で生きていくことができるのなら、それはもう無敵で最強だと思います。でも私たちには肉体があります。

 

肉体があるから、「私」は、あなたに、彼に、彼女に、あれに、それに、これに、触れることができます。触って、感じて、味わって、慈しむことができます。

 

そこにしかないよろこびだって、きっとあるのでしょう。

 

そこを大切にしつつ、それでも「愛」そのものを生きることは、私は可能だと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

ぜんぶが「私」であり、「あなた」そのものであることを、私は伝えたいのです。いや、共有したいのです。

 

分離の幻想は恐怖を生みます。恐怖は争いを生みます。争いは血を、涙を、悲しみを生みます。

 

世界中の人が、恐怖ではなく、愛を生きることができたら――

 

私はあなたで、あなたは私。そんな世界を生きることができたら――

 

 

 

どういうわけか、私は「愛」を見ることになりました。「愛」を知ることになりました。

 

自分という存在の本質が、「愛」そのものであることを、理屈でなく、体感することになりました。

 

 

 

知ったからには、共有していかなくてはいけない、と思ったのです。

 

いや、ただただ、共有したいのです。

 

みんな、本当は知っているはずなのです。

 

思い出して欲しいのです。

 

ただ、それだけです。

 

「共有したい」とか「思い出して欲しい」とか思うのが、そもそも分離という幻想のなせる業、そのものだとしても。

 

それでも――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

長々と続いたこのシリーズ、ここでいったん完結です。

 

お付き合いくださったみなさま、本当に本当にありがとうございました。

 

 

 

折しも今日は終戦記念日。

 

世界中の人が、愛を生きることができるよう、愛そのものとしての自分を見つけることができるよう、祈りを捧げます。