「来迎」って? その2

2014年8月6日

昨日は3年前の「来迎だん」を書きました。今日は私の「来迎なう」を書きます。いや、「なう」とかいうと思いっきり語弊があるな。「来迎」という言葉に対する、いまの私の感慨、ということですね。

 

 

 

昨日載せた記事の結論としては、「いつか死がすべてを奪い去るまで、精一杯生きていく」といったものでした。「終わり」があるからこそ、懸命に生きることができる、と。で、「来迎」っていうのは、「ああ、精一杯生きてきて良かったなあ」と心から思った、つまり自分の人生を大肯定できたその瞬間のことを差すのではないか、と。3年前の私はこう考えていたわけです。

 

これ、決して「間違い」ではないんです。めちゃめちゃ大事なことだといまでも思っています。肉体を持って生きているときにしか体験できないことって、たっくさんありますから。私たちはそれをしたくて生まれてきたんじゃないかな、と言っても過言ではないぐらい。兼好法師も「世は定めなきこそいみじけれ」って書いてますしね。大好きな一文です。

 

でも、この考え方にはある欠点があって、それは、「肉体の終了」=「一切の終了」というのを前提にしている部分。死んだらそれでおしまいだと思っていた。だって、それが「常識」だと思っていたから。

 

でも。あれから3年以上が経ったいまの私は、それは違うよ~と自信をもって言い切ることができます。

 

「死」は確かに肉体を終了させます。でも、それだけです。

 

肉体の終了後も、いまここにあり続ける世界を、私はもう、体感として知ってしまったのでした。

 

(これについては若干の説明が必要だと思うので、明日から一週間ほどかけて(かけすぎか)、その「実感」にいたるまでの体験を書いていきます。書くつもりもなかったのですが、なんというか、もういいや、全部出しちゃえ~~~、という気分になったのです。野暮だってことは重々承知の上です。あ、「体験」といっても、ぜんぜんたいしたものじゃないですよ。本当に、ふとしたきっかけでした。宗教とも無関係です。ご安心を……。)

 

つまり……

 

人は死にもしないし、生まれもしません!!!

 

っていうことです。(言っちゃった~~~)

 

 

 

上記を踏まえた上で(説明もしないままに! 乱暴ですね~)来迎図とか来迎三尊像とかをあらためて観てみると……「こんなの嘘っぱちだ!」と言ってしまいたくなります。いや、さんざん感動しておいてね、嘘っぱちもなにもないものですが……。

 

一般的に「来迎」=「死後の世界への移行」という風に考えられていますよね。死んだ人は、阿弥陀さまのお供である観音さまの持つ蓮台に乗っかって、きらびやかな西方浄土へと運ばれていくのだと。

 

でも、人間は、実は肉体を持ったままでも、その世界へと行くことはできるのです。いや、「行く」っていうと違いますね。その世界があることに「気づく」とか「思い出す」とかいう方が正確だな。それはひと時も離れずに、いまここにあるのだから。これも詳しくは後日……。

 

じゃあ、なんで来迎図と呼ばれる絵には、臨終の場面が描かれるのかっていうと、「死」の間際に、人は「気づき」の大チャンスを迎えるから。

 

「あれ!? もしかしてこの肉体がなくなっても、私っていうものは死なないんじゃない???」

 

という気づきですね。

 

でも、そのときに「恐れ」があったら、それが邪魔をして、スムーズに気づきの世界へと進めない。

 

その「恐れ」を取り払うために、美しい阿弥陀三尊を描いた来迎図や仏像が必要だったんじゃないかなあ。「こういう人たちが迎えに来てくれるなら、心強いなあ!」という安心感を死の床にいる人々に与えるために、それらは作られた。物質として、見て、触れるものって、それだけで説得力を持ちますからね。肉体の世界で生きている人にとっては。

 

つまり、絵や像はものすごく有効なツールではあるけれど、結局は「方便」にしかすぎない、ということで。

 

 

 

実際の「気づき」の瞬間には、阿弥陀三尊の姿なんて見えやしないです。いや、ビジョンとして見える人はいるのかもしれないけれど、それは「来迎」と呼ばれる瞬間の、ほんの直前の場面をそう表現しているに過ぎなくて。

 

来迎の瞬間には、主体も客体もなくなります。まったくのカオスです。

 

来迎しちゃったら(すごい日本語だ)、もうそこには「仏」も「私」も「生」も「死」も「あれ」も「それ」も「これ」も「あなた」も「あの子」も「こちら」も「あちら」も「右」も「左」も「上」も「下」も、その一切がなくなります。

 

でも、「ある」んです。

 

「ない」けど、「ある」んです。

 

すべてが「ない」からこそ、すべてが「ある」、なくてある、そんな世界。

 

そんな世界への移行(気づき)こそが、「来迎」の正体です。

 

それは生きている人にも訪れます。

 

阿弥陀三尊は、いつだって私たちと共にあります。

 

 

 

以上、「来迎」ってなんぞや? (ver. いまの私の理解……というか実感)でした。お粗末さまでした。

 

 

 

 

 

いままでで一番わけのわからない記事を書いてしまったかもしれない……。(でも、「あなた」には伝わると思っています。どうかな。)やっぱり、私の「ある体験」について説明する必要がありそうです。というか、説明しないことには、自分の気がおさまらなくなってきたというか……。それは明日以降、かなり長々と書いていくことになると思います。

 

お付き合い、どうか、よろしくお願い申し上げます!