私が仏像を観る理由 その4

2014年8月11日

その3 からの続きです。

 

 

 

4月初めの京都市街は春の陽気に包まれてポカポカと暖かかったが、京都の北部、さらに山奥の里である大原はさすがに少し肌寒かった。冷たい風にコートの前をしっかりと合わせて、土産物屋の並ぶ参道を急ぐ。

 

10 分ほど坂道を登ったところで三千院が見えてきた。ここには以前から是非一度拝観してみたい、と思い続けていた阿弥陀三尊像が安置されている。中央に阿弥陀 如来、向かって左側に勢至菩薩、右側に観音菩薩の三尊像。この三体は、仏の世界から亡くなった人を迎えに行く瞬間を表しているとされ、実際、勢至菩薩像、 観音菩薩像の二体は、正座(大和座り)から今まさに立ち上がろうと少し腰を浮かせた状態で像になっている、非常に珍しいタイプの像なのである。写真集など ではそのお姿を何度も見てきたが、実際に三千院を訪れるのは初めてなので、否応なしに胸が高まる。美しい庭園や数々の小さな仏像を足早に鑑賞しつつ、阿弥陀三尊像のいらっしゃる往生極楽院を目指した。

 

……なんてことを言いつつ、正直私は、ここの仏像にそこまで心惹かれるようなことにはなら ないだろうな、などと考えていたのだった。いくら仏像が好きだからと言って、私の心はすべての仏像に反応するわけではない。仏像と一口に言っても、大きく分けて、如来、菩薩、明王、天の4種類がいらっしゃる。私は今まで、この中でも比較的人間の形に近いお姿をされた、菩薩像や天像には非常によく反応していたのだが(恐らく、それは、そちらの方が自分に近いものとして認識しやすく、憧れやすかったためであると思われる)、パンチパーマのような髪型に、どっしりとした体つき、すべてを悟った後の落ち着いた表情……それらの特徴を持つ如来像は、あまりにも自分と違いすぎた。それゆえに、涙を流すほど心を揺さぶら れたことはなかったのだ。しかし、まあ、ここの如来様は有名だし、多くの人が「とても素敵な仏像だよ」「一度は観た方がいいよ」なんてことを言っているの だから、きっとそれなりに感じるものはあるだろうなぁ。私はそんな風に、言わばミーハー的に、非常に軽い気持ちでこの地にやってきたのだった。しかし、そ んなちゃらちゃらとした気持ちは、お堂に一歩足を踏み入れ、一目そのお姿を拝見した瞬間に、一気に吹き飛んでしまった。

 

そ こにいらっしゃったのは、もはや何かの形をもったものではなかった。いや、そこには確かに三体の仏像が安置されていたのだが、私にはもはやそこに存在して いるものを「像」という風には認識できなかった。形として目には映ってくるのだが、それ以上に像の周囲をただよっている形のない何かが、圧倒的な、暴力的でさえあるような力をもって、私の心に迫ってきたのだ。その何かが一体何であるのか……ああ、適当な言葉が見つからない……それは一体なんだろう……言葉 にできない。でも、私は、確実にそれを知っている。それは、ただひたすらにやさしく、ただひたすらにあたたかく、ただひたすらになつかしく……。そう、私 はそれを知っている。それは……それに名前をつけるのならば……。

 

愛。……ああ、そうだ。私は今、愛を目にしているんだ。

 

気 付いたときには、私はお堂の床にペタリと座り込んでしまっていた。もう、立っていることなど、できなかった。それはあまりにも衝撃的だった。愛なんて言葉 が自分のうちから自然に出てくるなんて思ってもみなかった。私はそれをずっとずっと前から知っていた。その、ひたすらにやさしく、ひたすらにあたたかく、 ひたすらになつかしく、ひたすらに大きい何かに、私は、ずっとずっと包まれて生きてきた。ただ、その何かには名前がなかった。私はそれに名前をつけてこな かった。しかし今、私は分かってしまった。それは、その何かは、愛だったんだ……。

 

 

 

その5に続きます。完結編です。