六道に天道がある理由

2016年12月3日

おはようございます。小出遥子です。

仏教では「六道」というものが説かれますよね。

天道(てんどう)
人間道(にんげんどう)
修羅道(しゅらどう)
畜生道(ちくしょうどう)
餓鬼道(がきどう)
地獄道(じごくどう)

私たちはこの6つの道のうちのどこかで「苦」を味わい、
迷いながら生きていかなくてはならない存在である、と。
そして、この六道を抜け出して涅槃を目指すことが仏教の目標とされています。

私、ずっと、この六道の中に「天道」があることが解せなかったんです。
もっとはっきり言えば、「天道」と「涅槃」の違いがよくわからなかった。

「天道」というのは、天人が暮らす世界です。
天人は世俗のあれやこれやにわずらわされることもなく、
花の香り漂うような世界(天界)で、いつも穏やかに笑って生きています。

これ、「さとった人」となにが違うの? なにも違わないじゃない!
天界で生きられるのなら、別に涅槃を目指さなくてもいいじゃない!
……って、そんな風に思っていたんです。

でも、これは「さとり」や「涅槃」に対する誤った解釈だったんですね。

いまから2年ぐらい前に『かぐや姫の物語』という映画が公開されました。
あれは、大筋のストーリーとしては、そのまんま昔話の「かぐや姫」で。
だから、最後は姫は月の世界に帰ってしまうんですね。

で、私は、その、映画における最後のシーン、
月の世界の人々、つまりは天界の人々が姫を迎えに来るシーンが忘れられなくて。

なにが忘れられないって、天界の人々の描写のおそろしさですよ……。

いや、決しておどろおどろしい姿として描かれてはいないんです。

むしろ、みんななにやら白っぽく光っていて、
軽やかできらびやかな衣をまとって、
すべての苦しみから自由になったかのようなツルンとした顔をして、
まさしく「この世のものとは思えない」ような、明るく楽しげな音楽を奏でて……

でも、こわいんです。おそろしいんです。
そこには強烈すぎるほど強烈な違和感があるんです。

天界の人々の様子は、とにかく不自然だった。

彼らは、「ある」ものを、「ない」と言ってしまう。
「見えている」のに、「見えていない」と言ってしまう。
「聞こえている」のに、「聞こえていない」と言ってしまう。
「感じている」のに、「感じていない」と言ってしまう。

その様子が、ほんとうにおそろしかったんです。

彼らには、影がなかった。
とにかく、薄っぺらく見えた。

「これは違う」と強く思った。

その印象が、
「天道」が「涅槃」と一緒であるわけがない、ということを、
理屈を超えたところから教えてくれました。

「ある」ものを「ない」と言い切ったところに「幸」を見出そうとしても、
その企ては、いつかかならずいきづまってしまうでしょう。

その反対側には、いつだって「不幸」が待ち構えているから。

「なにか」と「なにか」の二項対立の上に
「苦からの自由」の獲得を目指しても、
結局は徒労に終わってしまいます。

究極の自由は、ありとあらゆる二項対立を超えたところにあるのだから。

光も影もあっていい。
真も偽もあっていい。
善も悪もあっていい。
美も醜もあっていい。
生も死もあっていい。

「あっていい」というまでもなく、
すべては、同時に、ただ「ある」のだということ。

そのことを、なんの力みもなく認められるのが「さとり」だし、
「涅槃」のあり方なんじゃないかな、と……。

そんなことを、ふと、思いました。

 

よい一日をお過ごしください◎