私が仏像を観る理由 その3

2014年8月10日

その2 からの続きです。

 

 

大原に向かうバスの中でも、私はぼんやりとした頭でずっと考え続けていた。「どうしたら、何をしたら、私は憧れに近づけるのだろう……。」「やっぱり仏様は仏様で、人間が仏様のようなやさしさやあたたかさを身につけることなんて、所詮無理なのかな……。」少し寂しい気分になりながらも、「でも、完全にはそうなれなくても、目標にして生きていくことはできるな。それだけでも大分違うかな……。」と考え始めたら、私の心はだいぶ穏やかになっていった。「手の届かない存在」だと諦めてしまうよりも、「あのお姿を常に心に抱いて、目標にしてがんばろう」と思うだけで、その心の持ち方ひとつで、仏様との距離がぐっと近づいた気がしたのだ。

 

仏像というものに最初に心惹かれたのは高校時代の倫理の授業中のことであった。神の愛、アガペーを説明する際、先生が、広隆寺弥勒半跏思惟菩薩像の写真を資料として示し、こんなことを言ったのだ。

 

「まぁ、こちらのお方は仏ですからね、厳密に言えば神ではないのですが。このお方はね、やさしいお顔をして、片手を頬に添えて、じっと何かを考えていらっしゃる。 何を考えているかというとね、『どうやって衆生を救おうか』ということなんですね。ひたすらに私たち人間のことを考えてくださっているんですね。一切の見 返りを求めずに、ただひたすらに、自分のことじゃなくて私たち人間のことを考えてくださっている。やさしいね。あたたかいね。これが、愛というものです。」

 

それを聞いた瞬間、今まではまったく分からなかった仏像の魅力が大きな波となって、一気に私の心に迫ってきたのであった。「そう か……仏像って、仏様って、やさしいんだなぁ。」教科書や資料集に印刷された仏像写真の数々は、私にとって、もはや単なる暗記の対象ではなくなっていた。 以来、受験勉強の合間にそれらを眺めては「いつか本物を見てみたいなぁ」と、こっそりとため息をつく日々を送るようになった。しかし、そうは言っても、そ の頃の私は、まだ、仏像というものを、「自分とはまったく違うもの」「手の届かないもの」としか考えていなかった。

 

それから数年が経ち、 自分の稼いだお金であちこち旅行に出かけられるようになったとき、私はふと、高校時代からずっと惹かれ続けていたあの仏像たちに、実際に会いに行ってみよ う、と思い立ち、関西方面へ旅に出かけた。興福寺阿修羅像、法隆寺百済観音像、中宮寺弥勒半跏思惟菩薩像……実際に拝んだそれらの仏像は、無機質な教科書 の写真で見るよりも、何倍も迫力があって、何倍も何倍もあたたかかった。「あ、そこにいらっしゃる……」と思った。「ある」のではなく「いる」。彼らはお 寺の静謐な空間の中で、ひっそりと、しかし圧倒的な存在感をもって、たたずんでいた。彼らは、確かにそこに「いらっしゃった」。

 

その旅か ら帰ってきてからこっち、私は仏教関係、仏像関係の本を読み漁るようになった。そして、暇さえあれば関西方面に赴き、教科書に載っているような有名な仏像 から、あまり世間には知られていない山奥のお寺の仏像までを観て回るようになった。友人たちに「仏像巡りかぁ……ほんと、変な趣味見つけちゃったねぇ。」 と苦笑されようと、旅費を捻出するためにどんなにお洒落代を削ろうと、どうしても、定期的に、そこに「いらっしゃる」仏像に会いに行きたかった。そして実 際に彼らを観ては、「どうしてこんなに惹かれるのだろう……。」と自問自答を繰り返すも、まったく納得のいく答えは自分の中から出てこなかった。「こうな りたい」という気持ちはどこかにありつつ、その憧れは、まだまだ心の奥底でうごめいているだけで、言葉となって意識されることはなかった。

 

し かし、今回の旅で、私はようやく気付いたのだ。私は、仏像に「こうありたい自分」の姿を重ねているのだということに。そして、高校生時分、教科書に印刷さ れた平たい仏像の写真を眺めてため息をついていた私から見れば、仏像を「目標」と定めた今の私は、仏像との距離が、ぐっと近くなっているのだということ に。まだまだ私は仏様の足元にも及ばないけれど、それでも、彼らの持つあたたかさややさしさは、昔よりずっと身近なものとして感じられる。自分と仏様を比 べるなんて、ものすごく罰当たりなことなのかもしれないけれど……。それでも、仏様に近づきたいという気持ちは、私に力をくれる。それは、もしかしたらす ごいことなのかもしれないな……。そんなことを考えているうちに、私を乗せたバスは、大原の停留所に到着した。

 

 

 

 

 

その4に続きます。