私が仏像を観る理由 その2

2014年8月9日

その1 からの続きです。

 

 

 

国宝・広隆寺弥勒半跏思惟菩薩像。私が、心から仏像が好きだと自覚した、最初の仏像である。数年前、初めて広隆寺を訪れ、そのあまりにもやさしい、すべて を許してくれるような慈悲深いお姿を実際に目にした瞬間、思わず涙を流して以来、私は、関西方面に行くときは、必ずここのお寺にお参りするようにしてい る。毎回、門をくぐって境内に入った瞬間からどきどきしてしまうのだが、今回もまた、はやる気持ちを抑えつつ、弥勒像が安置されている霊宝殿へと急いだ。 いざ、霊宝殿に足を踏み入れ、他の仏像への挨拶もそこそこに、弥勒像の前に立った瞬間、私が思ったのは、「ああ、やっぱりかなわないな……。」ということ であった。口元に笑みを浮かべて、右手を頬に軽く添え、片足を組んだ姿勢で、「どうやって衆生を救おうか」と考え続けるそのお姿は、やはり、あまりにもや さしく、あまりにもあたたかく、あまりにも大きかった。

 

「かなわない……やっぱりこのお方にはかなわないよ……。」 たとえば、私のこと を「やさしい」と言ってくれる友人がいる。「聞き上手」だと褒めてくれる友人もいる。私のしたことに対して「菩薩みたい」なんてことを言って感謝してくれ る友人もいる。しかし、今私の目の前にいらっしゃるお方に比べたら、私の他人に対する態度の、なんと自己愛に満ちていることか。「相手のため」と称して話 を聞いたり話をしたりしていても、結局私は、100パーセント相手のことを考えた上で行動をすることなどできないのだ。菩薩だなんてとんでもない。まった く見返りを期待しないで、ひたすら相手のことを思って何かをしたことなど、私は、一度でもあっただろうか……。私は、まったく、あなたの足元にも及びませ ん。ああ……それでも、私は、

 

「あなたのようになりたいです。目標とさせてください。」

 

気付けば私は、弥勒像の前で両手を合わせ、そんなことをつぶやいていた。本当に、まったく、無意識のうちに出た言葉であった。

 

「あなたのようになりたいです。」

 

…… そうか。私は、数々の仏像の姿に、「あるべき人間の姿」を見ていたのだ。「こうありたい自分」への抑えることのできない憧憬。とても美しく、崇高なものへ の憧憬。そして、どんなに憧れても、結局、完全にはその存在と同化できないことが漠然と分かってしまっている、その苦しみ、痛み。「こうあれない」自分へ の苛立ち、哀しみ。それらが静かに混じりあって渦を巻き、私の心を掴んで離さない。ああ……だから私は、どうしようもなく仏像に惹かれるんだ……。

 

「こ うありたい自分」と向き合うのは苦しい。その行為は同時に、現在の自分に足りていないものと向き合う行為でもあるから。痛い、苦しい、でもどうしようもな く憧れてしまう。 「私は、あなたのようになりたいです。どうしたらあなたのようになれますか? 何をしたら、あなたのようになれますか?」 そんなこと を一心に考えながら弥勒像の前に立っていたら、気付けばかなりの時間が経っていた。「きりがないな……。」と諦めた私は、最後にもう一度だけ手を合わせ、 「目標とさせてください。」と強く念じて広隆寺を後にし、次の目的地である大原三千院へと急いだ。

 

 

 

 

その3に続きます。