私が仏像を観る理由 その1

2014年8月8日

昨日の続きです。つまり、前提の前提です。よろしくお願いいたします。

 

(以下の記事は2010年4月に書いたものをそのまま載せています。直したいところいっぱいあるけどキリがないので……!)

 

 

「仏像が好き」「どうしようもなく好き」「1~2ヶ月に1回はどこかのお寺に仏像に会いに行ってる」 なんてことを言うと、たいてい「どこが好きなの?」 「なんで好きなの?」なんてことを聞かれる。どこが? なんで? そうあらためて問われると言葉に詰まってしまう。私、仏像のどこが好きなんだろう。なん で好きなんだろう。なんでこんなに惹きつけられるんだろう……。私はいつもうまく答えることができない。「うーん……なんとなく?」そんなことを言ってご まかしてきた。しかしそれでは自分自身も納得がいかない。私、仏像のどこが好きなんだろう。なんで好きなんだろう。なんでこんなに惹きつけられるんだろ う……。ことあるごとに考えては、その途方もない問いに頭を悩ませていた。悩むぐらいなら……と、私は、この春も関西方面へ美仏巡礼の旅に出た。そしてそ こで、仏像と向き合うときの私の態度に、ある共通するものがあることを発見した。

 

たとえば奈良・薬師寺にて。国宝・薬師 三尊像、とくに向かって右側、日光菩薩像と向き合って。同行の友人と「すごく綺麗で優しい佇まいだね……。なんでも受け入れてくれる感じがする。もし、こ んな人が実際に近くにいたら、もうなんでも相談しちゃうよね。」なんてことを言い合う私がそこにはいた。

 

また、同じく奈良・東大寺戒壇院 にて。持国天像、増長天像、広目天像、多聞天像の4像を、一体一体、他に拝観客がいなかったのをいいことに、それはもう様々な角度から飽きるまでその凛々 しいお姿を拝ませてもらった私たち。拝観終了時間間際になってようやく戒壇院を後にしたときの私の言葉。「毎回ここの仏様には力をもらえるけど、今回は、 とくに多聞天に、頑張れ、って背中を押してもらった気がしたなぁ。」

 

奈良・海龍王寺にて。年に数日だけ公開される秘仏・十一面観音像の光 り輝く凛とした立ち姿に、しばらくの間、言葉を失う私と友人。近づいて観たり、遠目に観たりしたのち、ようやく絞りだした言葉は「ものすごく綺麗……。完 璧……。自分と全然違う……。」というものであった。

 

過去何度も訪れている、私の大好きなお寺、奈良・秋篠寺にて。いつもと同じようにお 堂には入って真っ先に伎芸天立像の前に立ち、そのお姿を目にとめた瞬間、「あ、今まで観た中で、一番力強く笑っていらっしゃる……!」と思った。「大丈 夫。それでいいんだよ。」と言ってくれているようなやわらかなその表情に、心の中からじんわりとあたたかいものが湧き上がってくるものを感じ、私は、自然 に手を合わせた。

 

そう、そこには常に、仏像を擬人化した上で彼らと対話する私の姿があったのだ。いや、正確に言えば人間 ではない。人間に似た形をした、でも人間というものを圧倒的に越えた形のないものと向き合っている自分の姿を、そこに見つけたのだ。そして、その「形のな いもの」が一体何なのか、「その得体の知れない魅力的な何か」をなんとか掴もうとして、私は、不躾な視線を多くの仏像に投げかけているのであった。近鉄奈 良駅で友人と別れ、一人向かった京都・広隆寺では、私の仏像鑑賞の際のそういった態度は、さらにはっきりとした形をとって私の意識にのぼってきた。

 

 

 

その2に続きます。