「来迎」って? その1

2014年8月5日

仏教用語の「来迎」って、一体どういう現象をあらわす言葉なのさ? ……という記事を書こうと思っていたら、3年以上前に書いたこんな記事が出てきたので、今日はそれを載せます。なかなかいいこと書いてました、私。(自分で言うな~!)

 

浄土寺を訪れたのは、2010年の9月のことだったと思います。

 

このときに感じていたことを踏まえて、明日、いまの私が「来迎」をどうとらえているかを書こうと思います。乞うご期待!(自分で言うな~!)

 

 

 

 

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もう半年も前の話になるが、私は、かなり前から是非一度訪れてみたい、と憧れて続けていた、とあるお寺の境内に立っていた。



兵庫県小野市にある浄土寺。そこには、快慶作の阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊がいらっしゃる。像自体の大きさや(中尊の像高は530センチ(須弥壇まで含めると750センチ!)、脇侍はそれぞれ371センチ)、快慶仏の特徴である、緻密で繊細な作りはもちろんだが、ここの像の有名なのは、なんと言っても三尊を包む「光」の演出のためであろう。



阿弥陀三尊は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した僧・重源によって建てられた、浄土堂と呼ばれる建物の中にいらっしゃる。この浄土堂は境内の西側に建てられ、阿弥陀三尊は東向きに立っているのだが、お堂の後ろ側の戸を開け放つと、そこから西日が入り込むようになっている。その光が堂内の床や天井に反射して、晴れた日の夕刻には空間全体が朱色に染めあげられ、中央の三尊が光の中に浮かび上がり、さながら来迎の瞬間そのものを体感できるという、壮大な仕掛けが施されているのである。





以前より、色んな方から「浄土寺に行くなら、絶対に晴れた日の夕方に!」とアドバイスをもらっていた。私自身も、極楽浄土から三尊がお迎えにいらっしゃるその瞬間を、ぜひ一面の光に包まれた特別な空間で拝んでみたい、と強く希望していた。



しかし、その日は朝からあいにくの曇り空。15時半頃に浄土寺に着くように計算して行動していたのだが、15時過ぎには、ポツリ、ポツリ、と降り出してしまった。そしてその雨は、お寺の駐車場に着いた頃には、傘を開かなくてはならないほどの強さに変わっていた。それでも空は白っぽく淡い光を孕んでいたし、もしかしたら急に晴れるかもしれない。それにこの位の明かりがあれば十分かもしれないし……。と、少しの期待を胸に、サンダルの足を雨に濡らしながら、三尊の待つお堂へと続く砂利道を急いだ。





少々立てつけの悪い木製の扉を開き、雨から逃げるようにお堂に体をすべりこませる。拝観料をお寺の奥さまに手渡しながら見回した堂内は、やはり、薄暗かった。浄土堂には、人工のライトはほとんど設けられていないのだ。暗さに目が慣れるまで、少々の時間を要した。それでも、中央に凛と佇む三尊のお姿は、それすら軽く凌駕するほどの迫力をもって、私の目に飛び込んできた。思わず息をのむ。





見上げるほどの大きさをもつのに、これほどまでに美しく整ったお姿をした仏さまは、私は、もしかしたら初めて拝んだかもしれない。どっしりとした安定感はもちろんあるのだが、その中にも、「いかにも快慶作!」と叫びなるような、唯一無二の緻密さ、繊細さがあり、表情から立ち姿に至るまで、なんと言おうか、すべてが、もう、完璧! なのであった。



……そうは言っても、快慶の作品は、その極度なまでの緻密さゆえに、今まで、私は、心からの親しみを持って拝むことができないでいた。完璧すぎるものには、こちらの心が入り込む余地がない。そんな風に、私は思ってしまう。「綺麗だなあ」「すごいなあ」と感嘆することはあっても、それ以上に残るものは、私には、正直、あまり、なかったのだ。



しかし、ここの三尊は完璧さの中に、えもいわれぬあたたかみがあった。どっしりと、地に足をつけて、すべてを見守ってくださっている、という感じがすごくした。嘆息しながら三尊を見つめる。荷物を適当な場所に置き、一度正面で合掌した後、ゆっくりと三尊のまわりを歩き、さまざまな角度からそのお姿を拝ませていただく。やはり、どの角度から観ても、そのあたたかさに満ちた完璧さは、しっかりとそこに存在していた。2周ほどしたのち、三尊のほぼ正面の、ちょうど阿弥陀さまと目の合う角度に腰を下ろした。そのまま、しばらく、仏さまとじっくり向き合う、静かな時間を過ごした。





そうこうしているうちに、時計は16時をまわろうとしていた。そのとき堂内には、私の他に、5人ほどの拝観者がいた。もう西日の差す時間なのに、堂内の暗さは私が入ったときと、ほとんど変わらないままだった。斜めからじっと三尊を眺めていた、人の好さそうな中年男性が、ふいに口を開く。
「今日は、やっぱり難しいのかなあ?」
「そうですねえ……。いつもでしたら、このぐらいが、ちょうど、一番いい角度で西日が差し込む、本当に綺麗な時間なんですけどねえ……。」
優しげな面差しのお寺の奥さまが、残念そうに答える。
「ああ、残念だなあ。光に包まれた仏さま、拝んでみたかったなあ……。」
みな一様に肩を落とし、それでも「仕方ないか」といったような笑みを浮かべながら、三尊を見つめ続けている。その空間には、奇妙な連帯感が生まれていた。
「ああ、でも、十分、美しいなあ。見守っていてくださるなあ……。」
先ほどの男性が、ゆっくり、しみじみとつぶやく声が、静かな堂内に、深くしみわたってゆく。



ひとり、ふたりとその場を去って行き、さらに静かになる堂内。それに反比例するかのように、雨の音は強さを増してゆく。外から流れ込んでくる微かな雨の匂いを感じながら、私は、先ほどの場所から動かないまま、じっと阿弥陀さまと見つめあっていた。





阿弥陀さまは極楽浄土の仏さまだ。つまり、来世の仏さま。極楽浄土は苦しみというものが一切存在しない、安らかな世界。その世界の主である阿弥陀さまは、だから、そのほとんどが、とても穏やかなお姿で表されている。豊かで、やわらかで、どっしりとしていて。阿弥陀さまのお姿には、一切の苦しみが含まれていないのだ。つまり、もっと言えば、現実離れしたお姿をしているのだ。

 

しかし、「来世で救ってあげる」と言われても、私が生きているのは現世だし、一寸先の未来も正確には分からない状態で、来世のことなど分かるはずもないし、とにかく苦しいのは今だし、今の私を救ってくださいな……とスネたような気分になってしまってもおかしくない。実際、私はそういう意味で、今まで、浄土教というものに強い共感を持つことはなかった。



今回、もし空が晴れていて、キラキラした西日が差し込むお堂の中で、輝く光に包まれた美しく巨大な三尊が、私たちを迎えに来てくださる瞬間を体感できていたとしたら、それは本当に大きな感動に包まれたことだろうと思うし、あまりの有難さに思わず涙をこぼすようなこともあったかもしれないとも思う。けれど、その、あまりにも夢の中のような光景に、その美しさ故に、私はもしかしたら、「でも、結局、死んでしまってからのお話なんでしょ」との思いを強めてしまっていたかもしれない、とも思うのだ。





でも、今、私の目の前にいる阿弥陀さまは、まさに「今」、「ここ」で、「この場所」で、私という人間と向き合ってくださっている。雲の形をした台座に乗って浮かんでいらっしゃるような作りをしているとはいえ、今、ここで、この場所にいる私と、同じ地平に立ってくださっている。そんな感じがした。



それは、そのとき雨が降っていたから、というのが大きいと思う。雨のそぼ降る境内の静けさや、堂内の薄暗さ、仏さまの顔に差した影、そしてその瞬間の私の精神状態などが、それぞれ絶妙に影響し合って、私と阿弥陀さまとの一対一の空間を作り出してくれたのだ。少しだけ厳しい顔つきのその阿弥陀さまは、切れ長の目で、しっかりと、今、ここにいる私を、見据えていてくださっていた。見守ってくださっていた。そのあたたかさにふれたとき、ふいに、

 

「人生はつづいていく。」

 

そんな言葉が出てきた。





ふわふわとどこまでも浮かび上がってしまいたくなるような大きな喜びに包まれる日がある一方で、鋭い悲しみに心をズタズタに切り裂かれるような日も、得体の知れない気怠さに全身をすっぽりと覆われてしまうような日も、光の存在を信じることができずに、心自体をすっかり消してしまいたくなるような日も、生きていれば、必ず、ある。それらをすべてものすごい勢いで飲み込んで、人生はつづいていく。生きることは、感じること。感じることは、ときにつらい。でも、感じることをどんなに投げ出したくなっても、生きている間は、生きることをやめられない。それでも。



いつかは必ず終わりがくるのだ。

 

阿弥陀さまという存在は、そのシンプルな事実を、静かに教えてくれているのだ。





「終わりがくる」ことがもたらしてくれる、奇妙な安心感。それは決してマイナス方面に向かうような考えではなくて、むしろ、だからこそ、この続いていく人生を、めいっぱい心を使って、感情を働かせて、生き抜いてやろう、と決意させてくれる。生きることは感じること。どんなに感じることを投げ出したくなっても、生きている間は生きることをやめられない。だから、せめて、精いっぱい生きてやる。どんなに不器用でも、逃げずに、まっすぐに、感じきって、生きてやる。そっちの方が、ずっとずっと、人生は楽しいから。悲しみを感じた分だけ、喜びを感じる力は強くなるから。そして、そうやって生きた人には、その人生の最後に、きっと、とてつもなく安らかな気持ちに包まれる。「こうやって生きてきて、本当によかったなあ……。」しみじみとそう思える瞬間が、きっと来る。

 

それこそが、「来迎」と呼ばれる瞬間なのだろう。



阿弥陀さまは、人間界から西方十万億の仏土を隔てた極楽浄土にいらっしゃるという。でも、本当は、阿弥陀さまは、この世で生きている私たちに寄り添って、いつも近くで、静かに見守ってくださっている。

 

「大丈夫。大丈夫。いつか来るその日まで、目の前の人生を、精いっぱい歩いていきなさい。」

 

私たちのすぐそばに立って、安らかにそう教えてくださっている。





くるくるくるくる。日々はめぐる。人生はつづいていく。何度も同じところを回って、繰り返して、それでも確実に少しずつ進んで、少しずつ変わって。そうやって、いつか終わりに辿り着く。輪廻転生という考え方は仏教の基本だし、地球の自転と公転のように、終わりに見えた地点は、本当は、次なる始まりの地点でしかないのかもしれないけれど。それでも。



今は、今だけだから。今の私でいられるのは、今だけだから。私は、頑張って、今を生きる。阿弥陀さまも近くで見守っていてくださっている。

 

「ありがとうございます。頑張ります。」

 

手を合わせ強く目を瞑り、決意を胸に刻み込むようにそうつぶやいて、浄土寺の阿弥陀三尊にお別れのご挨拶をした。





お堂を出たら、雨はさらに強さを増していた。冷たいしずくが腕にあたってはじける。半袖のシャツでは、もう凍えるほどだった。永遠を意識させるほどの言いようもないだるさを孕んだあの暑い夏は、いつの間にやらひっそりと姿を消していた。次の季節がやってきていた。





くるくるくるくる。日々は回っていく。季節はめぐっていく。人生はつづいていく。いつか、その時が来るまで、精いっぱい生きていく。

 

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3年前の記事は以上です。明日は私の「来迎なう」を書きます。