肌断食をはじめてもう3か月。もはやスキンケアをしない生活というものに完ッッッ全に馴染んでしまっているので、(肌トラブルも一切なし。熱心にスキンケアをしていたときよりも、肌は文句なしにぴかぴかもちもちつるつるです。……自分で言うな!)レポートと言っても取り立てて書きたてるようなこともなく……と思ったが、あった。あったよ、特筆すべきことが。
えーと、私、自分の顔が好きになりました!
というか、なんだろ、それこそ、「好きになった」というより、「馴染んだ」という感じか……。とにかく、そこに「否定」の感情がなくなった。
肌断食を開始する直前、私、人生において、最も化粧が分厚い時期だったんですね。分厚い、とは言っても、そもそもファンデーションは塗らない人だったし、化粧にかける時間は一般的な女性よりも多分ずっと短めではあったけれど、それでも。
「この控え目なアイズをいかにぱっちり、人並みの大きさまで持っていくか……そこが勝負だ!」なんてことを言って、上まぶたの内側のピンクの部分を「痛い痛い」叫びながら真っ黒に塗りつぶしてみたり、ぱみゅぱみゅ先生の歌を口ずさみながら自前のまつ毛の3倍はあろうかという恐ろしい長さの「ちゅけまちゅげ」を必死で貼りつけてみたりしていたのだ、肌断食直前の私ってやつは。
結果、いつだって目がかすんで充血していた。流す涙は真っ黒だった。つけまつ毛を剥がす際には、必ず地まつ毛も数本セットになって抜けていた。
メイクをすればするほど、「本体」にめちゃめちゃ負担がかかっていた。
それでも「人並み」になりたい気持ちの方が上回っていた。だからそんな生活をずっと続けていた。
「これ、ちょっと無理があるんじゃないの? おかしいんじゃないの?」と思わないこともなかったが、「いやいや、おかしいのは人並みでない自分の顔面の方だ!」と信じ込んで、ひたすらに「本体」にムチを打ち続けた。
……ばかだったなあ、私。ていうか、痛々しい。可哀想、私。
でも、こういう可哀想な人、私以外にもいーーーっぱいいると思う。
肌断食ではメイク落としも使わないので(アイメイクとか、どうしても落としにくい部分だけ、綿棒に少量の白色ワセリンをとって丁寧に落とす)、必然的に化粧も薄くなる。アイラインはそもそもひかなくなったし、マスカラもウォータープルーフでないタイプのものをささっと塗るだけになった。化粧前と化粧後の両目の大きさには、ほとんど差は見られない。「メイクの意味あるの?」ってぐらい、完全に自己満足の世界だ。
が、この「満足」っていうのが重要だと思うのだ。
前はどんなに分厚く化粧を施しても、ぜんぜん「満足」なんかできなかった。メイクの最終目的が「人並みになること」だったのだから。一般に「綺麗」とか「可愛い」とか言われている顔に必死で近づいていこうとすること、イコール、化粧という行動の意義だった。
でも、そもそも、その自分の目指す「人並み」の正体を考えてみることはしなかった。
「人並み」ってなんだ? 誰がそれを「並み」にした? 自分は本当にそれを「良し」としているのか?
……違うよね。ただ盲目的に信じていた(信じ込まされていた)だけだよね。
みんな違ってみんないいって、なんで胸を張って言えなくなってしまったんだろう。
「人並み」なんて、そもそもこの世に「本当に」存在するかどうかも怪しいものなのに。
ひとりひとりの顔つきや体つきがそれぞれ違うのには、ぜーーーったいになにかの意味がある。脳細胞が脳細胞としてあるように、足の爪の細胞が足の爪の細胞としてあるように、それぞれがそれぞれの理に適った形をして、自分の場所でただただ自分の働きをしている……そうやって人体という「ひとつ」の宇宙が成り立っている。
ひとりひとりの人間だってきっと同じなのだ。
それぞれに与えられた役割があって、それに適った形が与えられているはずなのだ。そこに優劣なんてそもそも生まれようがない。ただ「そのようにして」「ある」だけ。
そうやって「ひとつ」の宇宙が成り立っているのだ。
まぶたの内側を真っ黒に塗りつぶし、つけまつ毛を必死で貼りつけていたあの頃の私は、「おいら、どーしても心臓の細胞になりたいんだいッ!」と叫んで暴れまわる、足の小指の爪の細胞のようなものだったのかもしれない。
でも、もうそんなことはおしまいだ。だって全然意味がないんだもん。
私はこの顔で、この体で生きていく。
宇宙にひとつだけの、この顔と体が、私は好きです。
好きになれて、良かったです。
【参考】