ずーーーっと心の奥底でもやもやもやもやしていたことがあった。もやもやもやもやしているんだけど、その原因をいつまで経っても言語化できず、それゆえにさらにもやもやは溜まっていき……。せめて一部分だけでも表面に顔を出してくれれば対処法もあるものを……と嘆き悲しみ、「あなや」と叫んで袖口を濡らし続けていたところ(古文和訳調)、ある日、ついに「そいつ」が浮上してきたってんで、おいら頭にきてヨ、逃してなるもンか、とばかり全身で押さえつけて、ぐるぐる巻きにしてとッ捕まえてやったんでい、べらぼうめ! ざまあ見やがれってんでい!(突然に江戸っ子調)
捕まえた「そいつ」は、言わば私の長年の「生き方のクセ」のようなものだった。意識するにしろしないにしろ、どうしたって「あらぬ方向」に私という人間を進めていってしまう、目に見えない力……それが「そいつ」だった。
それで、緊急自分会議を開くことにした。ある日の夕方、近くの喫茶店に入って、私は「私」と徹底的に話し合うことにした。
議題は――
今後も「そいつ」を囲い続けるのか、それとも「そいつ」を放って互いに自由な人生を歩み始めるのか。さあ、どうするんでい、自分!?
口では「もういい加減、サヨナラしたいです」なんてことを言うのだが、心の底では未練たらたらで「そいつ」を愛おしく見つめる自分がいるのだった。
「あの人はあの人で、いいところもいっぱいあるんですっ!」的な……。
実際、私は「そいつ」に助けられて生きてきた部分もあるのだった。なんたって「そいつ」は私にたくさんの刺激を与えてくれた。「そんなんじゃダメだ!」「まだまだ足りない!」と叱咤激励して、私という人間を、前へ、前へ、上へ、上へと推し進めてくれた。私も「なにくそーーー!」と頑張れた。苦かったり、辛かったり、しょっぱすぎたり、そんな思いもたくさん味わったけれど、たまにはとびっきり甘く、うっとりするような素敵な思いも与えてくれた。でもそれはみんな一瞬だった。しかし、その一瞬の求心力はハンパなかった。それだけで、長年、私は……
でも、ある時、私はふとしたきっかけで、「そいつ」のいない世界を垣間見てしまったのだった。そして、理屈じゃなく思ったのだ。
「私が生きたいのは、こっちの世界だ……!」
なのに、である。「そいつ」を目の前にすると、決心がぐらぐら揺れてしまう、弱くて情けない自分がいるのである。
「でもさ」「だってさ」「いきなり変えるのも怖いっていうか」「いいところだって、いっぱいあるし、ねえ?」……。
言い訳ばかりを繰り返して、いつまで経っても決断できない私の横っ面を、江戸っ子が思いっきり引っぱたいた。そして叫んだ。
「どうして、単純に心が惹かれる生き方を選べねえんだ!!!!」
瞬間、目が覚めるような思いがした。
自分の生き方ぐらい 自分で選べ ばかものよ
(あれ? これ、つい最近どこかで聞いたような気が……)
次の日、私はさっそく、自分の全行動を、「そいつ」のいない世界に馴染ませるよう、意識して生きてみた。ぜんぶ、ぜんぶ、ぜーーーんぶ、である。
「そいつ」は、私ともはや一心同体になっていたので、はじめは引き裂かれるような痛みを覚えた。でもそれも一瞬だった。
「そいつ」のいない世界は、やさしく私を迎え入れてくれた。どこからか、「おかえり」の声が、聴こえた気がした。その声は、ひどく懐かしく私に響いた。
その日の夕方、ぐったりとくたびれつつ、しかしどこか清々しいような気分で空を見上げたら、たくさんの龍が舞っていた。
いつもつけている腕時計は、ある時刻を指したまま、止まっていた。
「決意が、刻まれたのだな」
「というか、いままでの私が、死んだのだな」
そう思った。
小さな生まれ変わりの体験だった。
だいぶ弱ったとは言え、「そいつ」はまだまだ私の中から完全には去ってはいない。いつまた暴れまわり始めるかもわからない。そういうものなのかもしれない。長年の「クセ」をあらためるのはたいそうなことなのだと思う。それでも、もう決めたのだから――
いつか、「そいつ」が完全にいなくなってしまうその日まで、私は、止まった腕時計をそのままにしておこうと思う。私の大切なお守りだ。