おはようございます。小出遥子です。
ここ最近、とある事情から、「不寛容社会」について思いをめぐらせていました。
著名人のスキャンダルに対する低俗なバッシングや、加熱化するクレーム合戦、
それを受けての過剰なまでの表現自粛……。
人々の他者に対する不寛容の結果、
このような事象が次々に起こっているのだという説明は、
なるほど、そうかもしれないな、一理あるな、と思いました。
でも、そもそも、なんでこんなムードが生まれてしまうのかな……。
と、大元のところを探ってみたら、
そこには「無知」というキーワードが見えてきました。
なにに対する無知か?
自分が、いつなんどきでも、どこにいても、
誰といても、なにをしていても、
絶対的にゆるされて存在している、ということ。
そのことに対する、無知です。
自分が、いまここにおいて、完全、完璧にゆるされて存在していること、
ただひとつ、そのことだけを知らないがために、
自分も、他者も、ゆるすことができなくなってしまっている……。
そういうお話なんじゃないでしょうか。
絶対的な「ゆるし」につつまれた瞬間、
人は、自分や他者を、まるごと受けれられるようになります。
というか、そもそも自分と他者との間の区別がなくなって、
主体も対象もない、ただの「ゆるし」そのものになってしまうのです。
ほんとうの意味での「平和」は、実はそこにしか実現しない。
そして、不寛容社会といわれる現代にこそ、
人々の目覚めの契機は潜んでいるのではないでしょうか。
「ゆるし」は、ほんとうはいつだってここにあるのだから。
絶望するにはまだ早い。
私は、光を見ています。
よい一日をお過ごしください◎