おはようございます。小出遥子です。
少し前にも書きましたが、夫は、私のことを「あたらしい人」だと言います。
これはなにも「新人類」とか「ニュータイプ」とか
(すみません、ガンダム詳しくないです……)
そういう意味で言っているわけではなさそうで、
「毎日、毎時、毎瞬、あたらしく世界と出会い直している人」という意味なのだそうです。
夫には、私という人間が、そのように見えるのだそうです。
それは、言い換えれば「なにもたまっていない人」ということになるのだそうですが……。
(この表現は、先ほど夫の口から直接聞きました。)
「たまっていない人」ねえ……(笑)。
いや、気に入りました。
「たまっていない」ということは、「つかんでいない」ということで、
つまりは「流している」ということになるのでしょう。
まあ、たしかに、いつからか、
人生においてのありとあらゆるすべてを「流す」、瞬間ごとに「流す」
……という芸当を覚えてから、いろいろいろいろ楽になったなあ、とは思います。
以前は、私も、
「つかんで、にぎって、離さない」
……みたいなことばかりしていたように思うのですが、
(人生のありとあらゆる局面でね! あはは!)
それって、やっぱり、疲れるんですよね。
なぜなら、自然の理(ことわり)に沿っていないから。
「ゆく河の流れは絶えずして……」じゃないけれど、
ありとあらゆるすべては、瞬間ごとに移り変わっていって。
「河の流れ」を見つめる自分すら「常ならず」で、
一瞬前の自分は、もうこの世界のどこにもいなくって。
河は、つねに流れていくからこそ、河なんですよね。
それを無理にせきとめたり、囲いこんだりしたら、
その瞬間にそれは自然の理から外れて、単なるよどみになってしまう。
私は、うつくしい河の流れそのものとして、
ただただ流れ、流されながら、そのうつくしさとたわむれていたい。
さっきは「流す」という表現を使いましたが、
ほんとうは、私がなにかを「流す」までもなく、
すでにすべては「流れている」のですよね。
ただ、流れとともにあること。
流れそのものとしてのいのちを、ただ、生きること。
ほんとうに、ただ、それだけでいい。
自分をもひっくるめたこの世界は、ほんとうはいつだってあたらしい。
これ以上のよろこびは、ないです。
よい一日をお過ごしください。