エッセイ『対話ってなんだろう?』7回目を更新しました。
今回は “「対話」ベースの「議論」も可能。でも……” というタイトルです。
【今回の目次】
■こころをおなかにおさめないままに「議論」をすると……
■まずはTempleで「ほんとうの対話」を体験・体感しよう
(以下、本文より一部抜粋)
ここであらためて、「議論」と「対話」ということばの辞書的な意味を調べてみました。
比較対象のため、「議論」によく似た「討論」ということばも並べてご紹介します。
【討論】
[名](スル)ある事柄について意見を出し合って議論をたたかわせること。「討論会」
【議論】
[名](スル)互いの意見を述べて論じ合うこと。また、その内容。「議論を戦わす」「議論を尽くす」「仲間と議論する」
【対話】
[名](スル)向かい合って話し合うこと。また、その話。「市長が住民と対話する」
(いずれも「デジタル大辞泉」より引用)
……どうでしょう?
なんとなく、上に行けば行くほど、声が大きくなって、
ツバが飛び散りそうな印象を受けないでしょうか?(笑)
そもそも「たたかわせる」ということばが出てきた瞬間に、
私なんかは、少し、引いてしまうようなところがあるのですが……。
もちろん、「討論すること」や「議論をたたかわせること」が
悪いと言っているわけではないんです。
双方の合意の元に、「討論をしよう」「議論をしよう」と言って始まるものであれば、
そこにはスポーツに夢中になる時に似たたのしさが生まれてくるでしょうし、
どうしても「結論」をひとつに定めなければいけないような状況の中では、
これらの手法を取らざるを得ない、というのは理解できます。
要は「使いよう」なんですよね。
ただ、こころをおなかにおさめないままに、
つまりは、こころをあたまの方に浮かび上がらせたままに、
もっと言えば、あたまに血と気をのぼらせたままに、
「討論」や「議論」をしてしまうと、
もし、その場でなんらかの結論が出たとしても、
「勝者」も「敗者」も、双方血を見ることになるというか……
次への禍根を残してしまうことになるのではないかな、と。
私は、そんなふうに感じるのです。
人と人とが話し合う時というのは、本来なら、どんな場面であっても、
おなかにこころをおさめた上で始めないといけないんです。
(※おなかにこころをおさめる簡単なワークは、第3回目のエッセイでご紹介しました。)
それさえできれば、「討論」であれ、「議論」であれ、「対話」ベースの営みになる。
つまり、「神」や「仏」になりゆきをすべて「おまかせ」した上で、
ゆったりとした気分で、その場に生まれてくるものを眺めることができるようになる。
「勝ち」とか「負け」とか、「正解」とか「不正解」とか、
そういったものすら、やわらかなこころで受け止められる。
それらの営みを通して、「いま」「ここ」「自分」、そして「世界」を、
これまでより、広く、深い視点から見つめられるようになる。
X軸、Y軸だけじゃなく、Z軸があったことに気づけるようになる、というか……。
これは決してファンタジックな、非現実的な話ではなくて、
人が人である限り、かならず、実現可能なことなんです。
でも、そもそも、いちばんのベースになるべき「対話」という営みを、
そもそも体験・体感したことがない、というのが問題で……。
だからこそ、安心・安全な「対話の場」としてのTempleが大切なんですね。
やわらかいけれど、ものすごく本質的なものが、
Templeという場にはぎっしりと詰まっているように思います。
Templeから、世界を変えていきましょう。
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