エッセイ『対話ってなんだろう?』6回目を更新しました。
今回は “「対話」は、どこにも向かわない営み” というタイトルです。
【今回の目次】
■どこにも向かわない場・Temple
■自分がいまいる場所を、そのまま「お寺(=Temple)」にしていこう
■「いま」が見えれば、「未来」が見える
(以下、本文より一部抜粋)
「なにものでもないいのちとしての自分」は、
それ以上でも、以下でもない、ありのままの存在です。
なにかを足す必要も、なにかを引く必要も一切なく、
「いま」「ここ」に立ち現れている、ありのままの「自分」の姿を、
そのまま、まるごと受けいれていく。
そして、ありのままの「自分」を受けいれることは、そのまま、
「自分」と「他者」、「自分」と「世界」との間にある境界線を外していく営みでもあるので、
結果として、「いま」「ここ」に立ち現れている「すべて」を受けいれていくことになります。
正解も不正解もなく、結論を急ぐこともなく、
縁あって出会った、すべての人・物・事を、やわらかなこころで、ただ、受け止めていく……。
それが、本質的な「対話」のあり方です。
そう、「対話」こそが、本来、
「どこにも向かわない営み」
「どこにも向かわなくていい営み」
「いま・ここ・自分をそのまま受けいれていく営み」
なんですね。
その営みの中に、こころとからだを解放することができたら、
自分自身の「本音」「本望」も見えてくるし、
結果として、今後、どのように生きていけば良いのかもわかってくる。
冒頭のメッセージをくださったメンバーさんに起きたのは、
きっと、そういうことだったんじゃないかなあ、と感じています。
ほんとうは、Templeで「対話」をたのしんでいただいている以外の時間も、すべて、
「なにものでもないいのちとしての自分にくつろぐ」ことができたら良いのですけれどね。
そして、それは、決して難しいことではないのだと思います。
まずは、ひとりひとりが、「こういう生き方も可能なんだ!」と、
理屈を超えて実感するところから、ですね。
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