【エッセイ】『対話ってなんだろう? #005』更新! – 「対話」と「さとり」と「八正道」 –

2020年6月8日

エッセイ『対話ってなんだろう?』5回目を更新しました。
今回は“「対話」と「さとり」と「八正道」”というタイトルです。

【今回の目次】

■私たちは日常の中で意外に簡単に「さとって」しまっている
■「さとり」を体感することが「対話」の生まれる素地となる
■『教えて、お坊さん! 「さとり」ってなんですか』読書会開きます!

(以下、本文より一部抜粋)

心身がほっとゆるんで、ふうっと深い息がつけたとき、
私たちは、未来でも過去でもなく、「いま」に着地できます。
ほかのどこでもない、「ここ」に落ち着くことができます。

その瞬間、私たちは、「さとりの世界」にいます。

「なんだ、そんなこと?」と拍子抜けしてしまう方もいらっしゃるかもしれませんね。

そうなんです。
私たち、日常の中で、意外に簡単に「さとって」しまっているんですよ(笑)。

もちろん、ずっと「いま・ここ」にあり続けることは難しいかもしれませんが、
ふとしたときに、「さとりの世界」が、私たちの目の前に立ち現れていることは間違いなくて。

そのとき、私たちのこころは、かならず、おなかの底の方に落ち着いているはずなんです。
そして、そのとき、私たちには、同時に、八正道で説かれる8つの態度が備えられます。

そう、八正道って、おなかにこころをおさめたところから、
つまり、思考ではなく、感覚優位になったところから、

すべてを感じるままに見て(正見)
感じたことを考え(正思惟)
感じるままにことばをつむぎ(正語)
からだが感じる心地よさに従って動き(正業)
自他を傷つけないような生き方をして(正命)
こころをあたまの方に浮かび上がらせない努力をし(正精進)
神や仏の存在を自分の中に感じて(正念)
同時に、神や仏の「いのち」の中に生かされている自分を感じる(正定)

そんな態度のことをあらわしているのではないかな、と思うのです。

……もう、お気づきですよね?
これって、前回、前々回と、このエッセイの中でご紹介した、
対話がはじまる第一条件としての「おなかにこころをおさめるワーク」と、
その際にあらわれる心理的、肉体的な感受性の変化と、同じことが語られているんです。

「対話」が生まれてくるための基本的な条件と、
「平和」を見出していくための一つの本質的な道として2500年続いてきた仏教の
根っこの部分にあるコンセプトが合致しているとは……

やはり、「平和」は「対話」からはじまるのだなあ、と、あらためて感じます。

「さとり」は「差取り」とはよく言ったものです。

おなかにこころをおさめたところから「見て」「聞いて」「感じる」世界は、
まさしく、自他の区別のない世界、すべてが等しくつながり合って、
「ばらばら」のままに「ひとつ」として存在している世界です。

その世界を、単に「あたまで考えた理想郷」にしてしまわずに、
実際に目の前に顕現させていくために、
私たちひとりひとりができることはきっとあるはず。

「平和」への道としての「ほんとうの対話」を成り立たせるための、
もっとも伝統的で本質的な道としての八正道。
いま、あらためて、大切にこころに置いておきたいな、と思うのです。

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