【エッセイ】『対話ってなんだろう? #004』更新! – あたまは“ばらばら” おなかは”ひとつ” –

2020年6月5日

エッセイ『対話ってなんだろう?』4回目を更新しました。
今回は「あたまは“ばらばら” おなかは“ひとつ”」というタイトルです。

【今回の目次】

■「なにものでもないいのち」としての「わたし」=「神」や「仏」としての「わたし」
■ひとつの「いのち」が、無数の「私」を生きている
■本来的な「いのち」のあり方を知ることから、平和ははじまる

(以下、本文より一部抜粋)

なぜ、自分の、そして神仏の「おなかの底」に落ち着いた時に、
そこに本質的な「対話」が生まれてくるのか……。

先に結論を言ってしまえば、

あたまは「ばらばら」、おなかは「ひとつ」

だからです。

前回のエッセイで、こころをおなかにおさめるワークをご紹介しました。
自分のおなかの中に、自分の「ほんとうの顔」がある、とイメージして、
そこからすべてを受け取るように、
ただ見て、ただ聞いて、ただ呼吸をして、ただことばをつむいでいく。
そうしているうちに、自然にこころがおなかに落ち着いてくる、というものです。

思い切ってタネ明かしをしてしまいましょう。

ここで「見て」「聞いて」「呼吸して」「ことばをつむいで」いるのは、
普段、自分が自分だと思ってる自分ではありません。

その主体は、個別の名前、性別、年齢、役割をもった「私」ではなく、
それらすべてのラベルをはぎとったところに残る、
なにものでもない、ただのいのちとしての「わたし」です。

「ただ見る」ことに、特別な名前が必要ですか?
「ただ聞く」ことに、特定の性別が必要ですか?
「ただ呼吸をする」ことに、決まった年齢が必要ですか?
「ただことばをつむぐ」ことに、社会的な役割が必要ですか?

答えは、すべて、「ノー」ですね。

ただ「生きる」ことに、なんのラベルも必要ありません。
そこには、いつだって、ただただまっさらな、
「なにものでもないいのち」としての「わたし」があるだけです。

般若心経にも、このような一節がありますね。

不生不滅
不垢不浄
不増不減

これは、すべての主体としての、「なにものでもないいのち」のあり方を表しています。

生ずることもなく、滅することもなく、
汚れもせず、浄らかになりもせず、
増えもせず、減りもせず、
ただ「ある」いのち。
なにものでもないいのち。

この「なにものでもないいのち」こそを、
人は、昔から、「神」や「仏」と呼んできたのでしょう。

おなかは、神仏との交流ポイントであり、転換ポイントです。
おなかにこころをおさめることで、
私たちは、神仏の存在を理屈を超えて感じられるし、
また、神仏としてある「わたし」の存在をも感じられるのです。

https://community.camp-fire.jp/projects/263282/activities/146373#main