どうしてもゆるせない人がいた。
普段は忘れていても、ふとした折に、「あの人さえいなければ、私の人生もっと違っていたかもしれないのに」なんて思いが頭をもたげてきて、私を悪意でいっぱいにした。
悪意は体の中だけにとどまらず、周囲にまでじわじわと漏れ出て、たくさんの人を傷つけ、再び私に戻ってきた。
そして、そのあと必ず、そんな自分が嫌いになった。
そんなことを何年間も繰り返し続けていた。
苦しかった。いい加減、うんざりしていた。
あるとき、私にこんなことを言ってくれる女性が現れた。
「その人はもう幸せなんだって思いこんでみたら? その人は幸せです、もう十分に幸せです! って決めちゃえばいいのよ。まずはそう口に出してみたら?」
……びっくりしてしまった。
自分を不幸にした相手の幸せを思う……? そんなことできっこないよ! なんでそんなことしなきゃいけないの!? 冗談じゃない!
そんな風に反発したのは一瞬だった。
彼女のあっけらかんとした明るい笑顔を見ていたら、頑なになっていた私の心に、ひとすじの光の亀裂が走った。
それと同時に、遠くの方から「チリ……」と、かすかだけれど、なにやらとてつもなく心地よい音が響いてきた。
やってみよう、と思った。
思い切って口を開いたはいいけれど、最初はまったく声が出てこなかった。
私の声は意思を持って「出て行くまい」としているようだった。
唇は震え、口の中は渇き、舌はもつれてからまった。
何度も深呼吸をして、絞り出すようにして……
「あの人は、もう、幸せです。幸せに、生きて、います。」
ああ、言えた……
よかった……
そう思うやいなや、眉間の奥のある一点が、焦げつくほどに熱くなった。
ぎゅっと目をつぶって、その人が幸せそうに笑っている姿を思い浮かべてみた。
そしてもう一度だけつぶやいてみた。
「あの人は、もう、幸せになっています。もう、大丈夫です……」
もう大丈夫です、の言葉は口をついて出た。
と同時に、涙がこぼれた。
一粒こぼしてしまうと、もう止まらなかった。
その涙は、安堵の涙だった。
そして、「ゆるし」の涙だった。
相手をゆるす気持ち以上に、自分をゆるす気持ちが、自分を癒した。
自分は、もう、自分のことをゆるしていいのだと思った。
解放されても、いいのだと思った。
相手の幸せを思うこと。
それが自分を解放する唯一の手段だったなんて。
そのときまで私は、誰かから悪意を向けられたときには、その相手に対して悪意を返すことしか知らなかった。
「あの人があのままで生きていけるわけがない!」
「だって私は悪くないんだし!」
「ぜったいバチがあたるよ!」
「どん底に落ちちゃえ!」
「私が味わった苦しみをおんなじだけ味わえばいい!」
そんな思考を、なかば意地になって働かせて、その人が不幸になる様子を頭の中で思い描いては、溜飲を下げているような醜い自分がずっといた。
それでも、その「溜飲」は下がりきっていなかったのだ。
むしろ、そんな想像をすればするほど、毒は溜まっていったのだ。
溜まりに溜まって、致死量まであと少し……
もう、限界だった。
不幸にもすれ違うことしかできなかった人、その人の幸せを祈ること。
それをはじめて自分に許可した瞬間、本当は、私は、相手の不幸を祈るよりも、幸せを祈りたかったのだと気がついたのだった。
私は、多分、ずっと自分を責めていたのだ。
「私のせいで、あの人は不幸になってしまった……」
そんなストーリーを自分の頭の中で作り上げて、苦くてまずくて吐き出したいのに、いつまでもいつまでも噛みしめ、飲み込み、反芻していた。
「あの人を不幸にしたのは私。そんな私が幸せになれるわけがない。」
そんな信念を、後生大事に持ち歩いていたのだ。
相手が不幸になっている姿を思い浮かべて、一番傷ついていたのは、実は自分だったのだ。
相手の不幸は、そのまま自分の不幸だったのだ。
相手の幸せを祈ることは、そのまま自分の幸せを祈ること。
相手の幸せを「決める」ことは、自分が幸せであることを「決める」こと。
大好きだったからこそ大嫌いになった、愛し合っていたからこそ憎しみ合うことになったその相手が、
私の頭の中で、幸せそうに笑ってくれた瞬間。
「もう、自由になっていいんだよ」
そんな声が、はっきりと聴こえたのだった。
私は、その人が幸せであることを「決めてしまう」ことによって、相手を「ゆるし」、同時に自分を「ゆるす」ことができたのだと思う。
こんな方法があったなんて。
「ゆるす」ことの意味が、ほんの少しだけわかったような気がしたのだった。
本当に、ほんの少しだけだけど。