おはようございます。小出遥子です。
今日は(今日も?)念仏について書きます。
私は、いつの間にか、「念仏者」になっていました。
きっかけは、もう、まったく思い出せません。
でも、気がついたときには、
常に(ほんとうに「常に」!)念仏を「となえている」……というか、
常に念仏が「聞こえている」感じの日々を送っていました。
いま、この瞬間も、もちろん、聞こえています。
そんな状態なので、
念仏の仕組みを「解明」しよう! とか、念仏を「理解」しよう! とか、
そういったエネルギーはほとんど湧いてこないのですが、
先日、ふと、「あ、念仏ってこういうこと?」とひらめくようなことがあったので、
野暮であることは重々承知の上で、思い切って、書いてみたいと思います。
「南無阿弥陀仏」って、まあ、「となえる」ものだと思われていますよね。
自分が、自分の意志をもって、自分の口で、となえるものだ、と。
うん。
それは、それで、ひとまずいいんです。
で、大事なのはここからで。
「南無阿弥陀仏」って、口でとなえますよね。
そうしたら、それとまったく同時に、
「南無阿弥陀仏」って、耳に入ってきますよね。
これ、まったく同時ですよね。
「即」ですよね。
一切のタイムラグが、ないですよね。
ここが、いちばんのポイントなんじゃないかと思うんです。
「となえる」の方は、さっきも書いたけれど、
自分の意志によってなされる行為(っぽい)ですよね。
でも、「聞こえる」は?
そこに、自分の意志、ほんとうにありますか?
どうかな?
不思議だと思いませんか?
「聞こう」と思う間もなく、
すでに「聞こえる」ということが起きていた。
しかも、「となえる」と同時に起きていた。
この一瞬の出来事の中に、なにかをしている「自分」はいたかな?
ほんとうにいたかな?
そこを吟味していく中で、
となえる私も、聞く私も、ひとつにとけて消えていく……
ということが起こってくるのかもしれない。
そういうメカニズムになっているんじゃないかなあ。
まあ、「吟味しよう」と思うまでもなく、
とけるときは、一瞬なのだと思いますけれどね。
うん。やっぱりこういう説明は野暮だな(笑)。
でも、またやると思います。
お付き合いいただければ……。
よい一日をお過ごしください◎