今回は、金子みすゞさんの「蓮と鶏」という詩をご紹介します。金子さんご自身は、これを仏教の詩として発表されたわけではないでしょうけれど、私は、ここに、どうしようもなく仏教的なこころを感じました。
私たちは、普段、自分の意志で自分の行動を決めていると思っています。なにを着て、なにを食べて、どんな人と会って、どんなことを話して……。しかし、ほんとうにそうでしょうか? ほんとうは、すべて、縁の中で「おのずから」起こっているだけなのだとしたら?
泥の中から蓮が咲くように、卵から鶏が孵るように、「自分は自分の意志でなにかを選び取っている」という思考すら、縁の中で、ごくごく自然に湧きあがってくる……。ただ、それだけなのだとしたら?
そのことが、理解を超えたところから理解されたときに、「南無」ということばが口をついて出てくるのかもしれませんね。
そのようにさせている“すべて”に、ただただ、降参するばかり。生かされていることに、ただただ、感謝するばかりです。
(「ほぼ週刊彼岸寺門前だより」2016年5月15日発行号より転載)