物語を共有できなくても、「物語を生きている」ということは共有できる

小出:今のお話にもありましたけれど、すべてにおいて「私の」とか「あなたの」とかいうことばを、意識的にであれ、無意識のうちにであれ、頭につけなきゃ気が済まないようなメンタリティーの中で、多くの人は生きていると私は思っていて。でも、本来、すべての言動はご縁の中で生まれてくるわけで、ほんとうのところ、そこには「私の」も「あなたの」もないわけですよね。その事実を、いちばんわかりやすく理解できるのが、やっぱり、対話の場だと思うんです。

梶田:ええ。

小出:そういうことで、私は「Temple」という対話の集いを定期的に開催しているんです。お寺に集まって、ただそこに湧き上がってくる対話をたのしんでみましょう、っていう、ごくごくシンプルなイベントなんですけれど。そこに湧き上がってくる対話は誰のものでもなくて、その瞬間の大きないのちのあらわれなので、それにふわっと身を預けてください、みたいなアナウンスを、毎回、イベントの最初にさせていただいて……。

梶田:対話というのは、相手の物語をそのままに受け止めていく場でもありますよね。

小出:相手の物語、ですか。

梶田:人間は、それぞれに、自分だけの物語を作りながら生きている生き物ですから。それはそれぞれに違っていて、誰ひとりとして自分と同じ物語を生きている人はいなくて。でも、対話の中で、お互いに自分の人生を語り合うことで、みんなそれぞれ違う物語を生きているけれども、それぞれの物語の中でひとりひとりが生きているという点では同じだということに気づいていくことができる。

小出:同じ物語を共有できなくても、「物語を生きている」ということ、それ自体は共有できる、と。

梶田:そこをみんなが理解し合うことができたら、もうちょっと、この世界は生きやすくなるんじゃないかな、と思うんですよ。

小出:自分の物語が自分にとって大切なものであるように、誰かの物語も、その人にとってはとても大切なものなんだ、ということがわかれば、互いの物語を尊重し合えますものね。

梶田:もちろん、口で言うのは簡単ですが、実際にそうするのはなかなか難しいことだとは思いますけれどね。

宗教は「個人の物語」を相対化するための「大きな物語」

小出:梶田さんは、よく、「物語」ということばを使われますけれど、それで言えば、私は、以前は、物語を生きているということ自体が、人間の苦しみの原因になっていると思っていたんですね。だから、単純に考えて、物語の外に出てしまえば苦しみは消えるのだ、と。仏教はそのための道筋を説いたものだと思っていたんです。でも、そういうことではなかったんだな、っていうのが、あるとき……まあ、結構最近なんですけれど、ようやく理解されて。個人として生きている限り、そこにはどうしても個別の物語が生まれて、それは決して避けられるものではないのだ、と。でも、それがあくまで物語に過ぎないことを知っているか否かで、また、生き方というのは変わってくることは確かで。仏教をはじめとする本質的な宗教は、その可能性を指し示すものなんですね。

梶田:自分の小さな……というと言い方は悪いかもしれないけれど、小さな物語を超えたところにある、大きな物語を教えてくれるところに、宗教の役割はあるということですよね。

小出:宗教は、大きな物語なんですね。

梶田:でも、大きな物語に出会ったからといって、個別の小さな物語を捨てるわけではない。

小出:そこは、変わらず、自分の身をもって生きなきゃいけない、と。

梶田:はい。でも、大きな物語を信じていくことで、自分なりの物語を相対化していくことはできる。

小出:相対化。自分の物語に閉じていた視界が開かれると言いますか……。

梶田:大きな物語から見れば、自分の物語も、「まあ、これもひとつの生き方だな」「かけがえのない人生だな」という風に思える瞬間も生まれてくる。そこから「自分は自分の人生を生きていくしかないんだ」という覚悟も出てきます。

小出:ここ、法然院は、名前の通り、浄土宗の開祖、法然さんが開かれたお寺ですけれど、ここにおいての「大きな物語」というのは、阿弥陀さまの物語、浄土の物語ということになるでしょうか。

梶田:そうですね。私たち人間はこの世では決してさとることができないけれど、死後、浄土に行けば、そこで必ず阿弥陀仏に目覚めさせていただける、という物語ですね。

小出:人間はさとることはできない?

梶田:この世ではね。法然上人、親鸞聖人はそう教えています。みんなそれぞれの物語を生きることに必死ですから。でも、個人の小さな物語を超えたところにある物語に触れて、最後は一緒にさとろうね、みんなで一緒に目覚められたらいいよね、といった気持ちを持つことができたら、それぞれが、それぞれの苦しい人生を悲しみ合いながら、ときに笑い飛ばし合いながら生きていくことも可能になっていくのではないでしょうか。そういう可能性を確認する場所として、お寺があればいいなと思っていますね。

お寺では「非常識」なことが説かれなければいけない

小出:そういう場所として、お寺は、今、顕在的にも潜在的にも、ものすごく多くの方に求められていると思います。

梶田:だから、ある意味、私たち坊主は、非常識なことを説いていかなくてはならないと思うんですよ。

小出:非常識なこと!(笑) うーん、その表現にはちょっとびっくりしてしまいますけれど(笑)、でも、確かにそうですよね。大きな物語というのは、常識を超えたところにあるわけですからね。

梶田:坊主が常識の中でなにかを語っていたってどうにもならないですよ。そういうことだったら社会運動家の先生に語っていただいた方がよっぽどいいと思いますので。私たち坊主は、みなさんがしがみついている社会の常識を超えたところにある大きな物語を届けるのが役割ですから。

小出:そういうことで言えば、さっきもお話になられていたように、私たちは普段、すべて、自分の意志で自分の言動を決めていると思っているけれど、仏教的に言えば、それはすべて縁の中で起こっていることで、そこに自分の意志がどれだけ関与しているかどうかは疑問だ、というのも、まあ、一般的には「非常識」なお話ですよね。「自分を信じなさい」というようなことばがもてはやされているこの世の中で、「自分を信じるな」「自分のこころをあてにするな」なんて(笑)。

梶田:そうですね。もちろん、自分を信じることが物事を成し遂げる力になっていくこともあるでしょうけれど、あんまりそこを拠りどころにしすぎると、今度は苦しくなってなにもできなくなってしまう。そんなときに、お寺で、「こころなんてあてにならないものですよ」という物語を聞けば、また違った道が開けてくることもあるかもしれませんのでね。

小出:そういう風に、普段生きている中では思いもよらなかったことをお寺で聞かせてもらえることは、「常識」にがんじがらめになっている私たちにとって、ものすごくありがたいことです。

梶田:その結果、相対化が起これば、自分の物語をしっかり生きていく力になりますからね。

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