師との出会いが「慈悲」を育てた
小出:いまのお話を伺っていてあらためて感じたのですが、先生って、とにかく「慈悲」の方ですよね。「慈悲」がそのまま人のかたちをとったような……。
プラユキ:いやいや……(笑)。
小出:先生の、その「慈悲」の力の源にあるものについて、お話を伺えますか?
プラユキ:そうですね……。ひとつは、やっぱり、師匠との出会いが大きいでしょうね。
小出:ルアンポー・カムキアン師ですね。私も、生きてお会いしたかったです。
プラユキ:ほんとうにね。はじめてお会いしたときから、やっぱりすごくそういった、おおらかな慈しみをもって触れあってくれるというか、誰に対してもね、そういう感じの方でしたね……。まあ、私もね、ルアンポーのことを思い出して話すと、どうしても泣けてくるところがあるんですけれど……。
小出:ほんとうに素晴らしいお師匠さんだったのですね……。
プラユキ:おそばで修行をさせていただいて、ご指導を受けて、直接薫陶を受ける部分があったのはもちろんなんですけれど、それ以上に、ルアンポーの後ろ姿に学ばせていただくところは非常に多かったですね。
小出:後ろ姿に。
プラユキ:私たち弟子以外にも、出会う人出会う人を後ろ姿で導くような方でした。そのお姿に、いつも感銘を受けていて……。ほんとうにあたたかい方でね。私のことも、ブッダの慈悲心で、まるごと、全体的に包んでくださっていたような感じがします。
小出:まるごと、ですか。
プラユキ:修行中には、イライラとか悲しみとかいろんなことが起こって、迷ってしまうようなこともあったけれど、ルアンポーはどんなことがあっても受けいれてくださって。あたたかく見守ってくださったというかね……。そこから受けた影響は大きいですね。そういう方の存在感って、それ自体がよき縁となって、周りに浸透していくんですね。だから、ルアンポーの弟子には、やっぱり、自分の修行だけじゃなくて、周りの人たちの苦しみの解放のためになにかできないか、ということでいろんな活動に熱心に取り組んでいる僧侶が多いんですよ。
小出:開発僧(かいほつそう)と呼ばれる方々ですね。
プラユキ:そうです。仏教にはもともとそういうポテンシャルがあると思うんですね。もちろん、智慧を育み、自身の苦しみの滅却を目指して修行していくことも大事だと思いますが、同時に、一切衆生とともに生き、ともに幸せになっていく、そちらを志向していくこころは、ルアンポーに大きく育てていただいた気はしていますね。
小出:もちろん、先生の中に、もともとそういう志向はあったのかもしれませんが、カムキアン師との出会いの中で、それが確固たるものとして根付いていったのですね。
よき縁に触れ、よき縁となし、よき縁となる
プラユキ:師との縁にプラスして、やっぱり、やってきた瞑想法が、すごくそんなタイプだったというのは大きいかもしれませんね。
小出:「チャルーン・サティ」が?
プラユキ:はい。さきほどもお話ししましたけれど、瞑想というと、やっぱり、なにか特殊な境地に至ることを目指してやっていくようなイメージが強いかと思うんですけれど、そうじゃなくて、ほんとうに、ただ、あるがままを、あるがままに気づいて受けとめ、理解するところに重点を置いてやっていくのが「チャルーン・サティ」なんですね。まずは全体を大きく包んで、そこから徐々に細かい仕組みやら、システムやらを理解していく。
小出:なるほど……。
プラユキ: 心に生ずるコンテンツとしての思考や感情であるとか、あるいは現実の出来事であるとか、すべての生きとし生けるものの存在世界を、どれがいいとか悪いとかという価値判断を入れず、すべてあるがままに受けとめて理解していく。そこから見えてきたダンマによって、また同時に、人間理解も進んでいく。
小出:その人間理解が、そのまま「慈悲」になっていく、と……。臨済宗の故・朝比奈宗源老師も「慈悲とは理解である」ということばを遺されているようです。
プラユキ:そうですね。無明ゆえに渇愛が生じ、その結果、いろいろな苦しみが起こってくるんだな、とか、そういう風に全体のパターンとして法の全体像を包括的に把握し、共感していくという力が培われていって、それが、まあ、慈悲的な行動に結びついていくのかなと。
小出:先生ご自身が「チャルーン・サティ」を修めるだけじゃなくて、それをご縁のある方々にご指導されているのは、やはり、その「理解」が他者だけに向かうのでなく、自分をも救うからですか?
プラユキ:もちろんそうですね。瞑想によって、まずは自分の中に非常に安定した、地味豊かな土壌が培われていくというのはあるので。あとはできるだけよき縁となって、それを必要としている人たちにお届けしていきながら私自身も救われ、成長していきたいと思っていますね。
小出:『自由に生きる』(サンガ刊)の副題にも、「よき縁となし、よき縁となる。」とありますけれど、これはプラユキ先生のご活動の、まさに真髄をあらわしたことばですよね。
プラユキ:ありがとうございます。本のタイトルはサンガの編集者さんが考えてくださったのですが、自分でも大変気に入っています。
小出:先生とこうしてお話しさせていただいたり、ご著書を拝読したりしていくと、なんというか、非常に前向きな気分をいただけるんです。それは、やっぱり、先生のおこころの中に、常に「よき縁となし、よき縁となる」ということばがあるからなのかな、と。
プラユキ:ええ。人間、よき縁に触れることさえできれば、いつでも、いまここから、よき方向、つまりブッダクオリティーを志向して生きていくことができますから。よき縁に触れ、よき縁となし、よき縁となる。これは、いつでもこころに置いておきたいですね。
小出:安易なポジティブシンキングなんかじゃなくて、いまここで、ただあるがままを、あるがままに、受容していった先に、智慧が開かれ、慈悲が起こって、そこから、自他ともに安楽への道が開かれていくのが見えてくる……。ほんとうに、希望に満ちたお話をお聞かせいただきました。先生とのご縁にこころより感謝します。今日はほんとうにありがとうございました。
プラユキ:こちらこそ、ありがとうございました。
プラユキ・ナラテボー
1962年、埼玉県生まれ。上智大学哲学科卒。タイ・スカトー寺副住職。
大学在学中よりボランティアやNGO活動に深く関わる。
大学卒業後、タイのチュラロンコン大学大学院に留学し、農村開発におけるタイ僧侶の役割を研究。
1988年、瞑想指導者として有名なルアンポー・カムキアン師のもとにて出家。
以後、自身の修行のかたわら、村人のために物心両面の幸せをめざす開発僧として活動。
またブッダの教えをベースにした心理療法的アプローチにも取り組み、医師や看護師、理学療養士など医療従事者のためのリトリート(瞑想合宿)がスカトー寺で定期的に開催されている。
近年は、心や身体に問題を抱えた人や、自己を見つめたいとスカトー寺を訪れる日本人も増え、ブッダの教えをもとにしたサポートを行っている。
また日本にも毎年招かれ、各地の大学や寺院での講演、ワークショップから、有志による瞑想会まで、盛況のうちに開催されている。
著書に『「気づきの瞑想」を生きる』(佼成出版社)、『苦しまなくて、いいんだよ。』(電子書籍版 Evolving/オンデマンド版 PHP研究所)、『脳と瞑想』〈篠浦伸禎氏との共著〉、『自由に生きる』(いずれもサンガ)、『仕事に効く! 仏教マネジメント』(電子書籍、Evolving)等がある。
※この対話記事をベースとして、5月30日(火)に「Temple@光明寺」というイベントを開催いたします。プラユキさんご本人もご参加くださいます。ふるってご参加くださいませ。くわしくは当サイトEventページをご参照ください。
※「まいてら新聞」【プラユキ・ナラテボーさん(僧侶)の“いのち”観】- いまここをしっかり生きていけば大丈夫 – も、どうかあわせておたのしみください。
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