仏教は「苦しみ」という生々しい現実からはじまった

小出:仏教の言う「しあわせ」というのは、「苦」が取り除かれた状態のことでしょうか?

プラユキ:そういうことですね。仏教がものすごく画期的だったのは、「苦しみ」という、ものすごく生々しいものに目をつけたところだと思うんです。

小出:仏教以前にそういう宗教はなかった?

プラユキ:うん、なかったんじゃないでしょうか。少なくとも、それまでのウパニシャッド哲学とか、バラモン教とかがやろうとしていたことは、どちらかと言えば世界の仕組みを明らかにするとか、超越的な境地を得るとかに関心が寄せられていたと思うんですね。だけどブッダは、まずは現実にある、この、ほんとうに生々しい、人類に共通する「苦しみ」という問題に目を付けて、そこから自由になるために四聖諦(ししょうたい)や十二因縁(じゅうにいんねん)という教えを説かれていったんです。

小出:入り口がそれまでの宗教とは違っていた、と。

プラユキ:そう思います。世界がどう、超越的境地がどう、というよりも、まずは「苦しみ」をなんとかするために、自分のこころとからだに基盤を置いたというのは、やっぱり、ものすごく画期的なことだったと思います。

小出:「苦」を入り口に、自分のこころとからだの仕組みを探究していったら、結果的に世界の成り立ちの仕組みも見えてきたけれど、それはあくまで「結果的に」なんですね。

プラユキ:そういうことではないかと思います。

小出:「対人間」を突き詰めたところに、自分のこころとからだを成り立たせているいのちと同じものを、他人のこころとからだにも見出して、さらには世界の成り立ちの中にも共通するものを見出していったというか……。その「共通するいのち」というところから見れば、さきほどの「自他の抜苦与楽」というお話も、すんなりと理解できるような気がします。いのち視点から見れば、自分にも他人にも、なにも差はないですものね。

プラユキ:ほんとうにそうですね。

いのちのレベルではどんな人にも「差」はない

プラユキ:だから、私はいまは瞑想指導と個人面談を二本の柱としてやっていますけれど、面談にも、ほんとうにいろいろな世代の、いろいろな属性を持った方が来るんですよ。かなりお年を召された方から、それこそ高校生ぐらいの子が来たりもする。

小出:へえ!

プラユキ:職業もみんなバラバラ。でも、ぜんぜん違和感なく話が出来てしまうんですよね。それは、たぶん、いのちレベルで語り合っているからだと思いますね。

小出:肩書きとか、役割とか、それこそこの世での属性を取り払ったところにある、ただの「なにものでもないいのち」として、オープンにお相手と向き合っていらっしゃるんですね。先生自身も、本来「なにものでもないいのち」だし、目の前のこの人も「なにものでもないいのち」なんだっていうところから……。

プラユキ:そうそうそう。だからね、私、誰とでもたのしく話せちゃう(笑)。

小出:すごく素敵です。

プラユキ:いのちレベルで向き合っているから、どんな内容の話にも合わせられるんですよね。たとえば科学の話もそうだし、あと子育て中の人の話とかもたのしく聞けちゃうんですよ。自分にはその経験がないのに(笑)。あとは、流行りの歌とか、その歌詞の中にも、共通してあるいのちというか、ダンマを感じるので。そういうことも対話の中に盛り込んで共感してみたりして……。

小出:いいなあ。そうなってくると、目の前のお相手が高校生だろうが、どこかの会社の社長さんだろうが、ぜんぜん違いはなくなってきますよね。

プラユキ:そうなんですよ、ほんとうに、なんにも違いがなくなってくる……。もちろん、そこには個々の悩みがあるし、生き方があるんだけれど、そこに共通するものが見えてくると、それぞれの問題をほどく道筋も自ずと見えてくるんですよね。

「なにものでもないいのち」として在るとき、癒しが起こる

小出:人間って、役割や肩書き以前にあるほんとうの自分、なにものでもないいのちとしての自分を思い出させてもらったときに、はじめて、こころの底から安心できるんですよね。そこにほんとうの意味での「癒し」というものが生まれてくると思っていて……。先生は、そこをど真ん中において活動されていらっしゃる。その態度に、ほんとうに、多くの方が救われていると思います。

プラユキ:ありがとうございます。そうだとうれしいですね。とにかく、いつも、いまここで、ライブで触れあっている目の前の人に、できるだけのことをさせていただこう、という気持ちではいます。

小出:プラユキ先生は、ほんとうにさまざまな苦しみを抱えた方と向き合っていらっしゃいますよね。精神的な疾患として診断名がつくような方々も受けいれていらっしゃって……。私の知る限り、そういった方々をも受けいれている瞑想道場や個人面談の場って、やっぱり決して多くはないというか、ごくごく稀だとは思うのですが……。

プラユキ:そうですね。まずは、私にできることは、できるだけさせていただこう、と。そういうスタンスでおりますので。もちろん、そうは言っても、どうしてもお医者さんの力が必要な方には、信頼できる先生を紹介させていただいたりはしますけれどね。

小出:こういった活動を続けていくには、大変な覚悟が必要だと思うんです。

プラユキ:まあ、お話を聞くときは、自然に相手の方に波長を合わせてしまいますからね。自分自身が覚めた意識を持っていないと、巻き込まれるようなことも起こるので、それは危険なことでもありますね。でも、私の場合、一応、常に意識を覚醒状態に保つという練習をしてきたわけですし、実際に相手の方と対面すること自体を大切な瞑想の場としても捉えていますので。

小出:面談自体が、先生ご自身の修行の場でもある、と。

プラユキ:そう。一般的にはリスキーなことですけれど、そこには同時に大きな学びも起こってきます。相手と対面することによって、よりダイナミックな、生きた智慧が生じてくる実感があって。自分ひとりで修行していただけではわからないようなことを示していただけるというか。

小出:すごいです……。

いのちをかけて目の前の人と向き合っています

小出:まさに「菩薩」ですね。他人を救うことを、みずからの修行としていく、という……。

プラユキ:もちろん、最初からうまくいったわけじゃないですけれどね。対面していて、やっぱり、こっちもイライラしてしまったりとかね、ネガティブな影響を受けちゃうようなこともありましたけれど。でも、だんだんその辺の問題も解消されていって……。懐を深くして、あるがままに触れあっていくような態度が、だんだん自分の中に培われてきたという感じですかね。

小出:懐を深くして、あるがままに触れあっていく。

プラユキ:はい。そうすると、自分だけの範囲ではわからない、いろんな人のいろんな苦しみというものに触れられるし、そこにより大きな普遍性が見えてくるんですね。ジグソーパズルが埋まっていくうちにパァーと絵が見えてくるような感じで、あたらしい知見が開けてくるというか。だから、ほんとうに、この活動自体、私にとってのいちばん学びの機会ですね。自分の知らない、いろんな業界の人たちや、世代の人たち、いろんな思いを持っている人たちに、一回一回、学ばせていただくというか、まあ、そんな感覚は実際にありますよね。

小出:でも、時には、「これはどうしても対応しきれないな」というか、もっとはっきり言ってしまえば、「怖いな」とか、「逃げたいな」とか、そんな風に思うことってないですか?

プラユキ:そうですね……。完全に自分だけのおどろおどろしいドラマにハマりこんでいる方もいらっしゃったりしますからね。そういう方に向き合っていると、やっぱりこちらにも不安が起こってきたりとか、そういうことはありますよ。でも、それもまた、瞑想的にケアしていくこともできるので大丈夫です。

小出:そうですか……。

プラユキ:あとは、まあ、自分という枠組みの中だけでやっていることじゃないのでね、なにがどうなっても、それはまた、なにかしらのご縁というか(笑)。

小出:ええ!?

プラユキ:そのぐらい、まあ、いのちかけてやっているところはありますね。ある意味でね。

小出:ほんとうに、すさまじいご覚悟ですね……。

プラユキ:いろんなタイプの方がいらっしゃればいらっしゃるほど、やっぱり基本的に、たのしいですよ。いろんな方と触れあえば触れあうほど、また、ダンマが、どんどんはっきり、くっきりとしてくるわけですから。もちろん、そのためには、こちらも日々精進していかないといけないですけれどね。

小出:そうですか……。ほんとうに素晴らしいです。思わず手を合わせてしまいます。

プラユキ:恐縮です。

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